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弾薬庫跡・平和の碑

歴史ガイドブック

内周道路を歩いていると緑色の鉄扉を見かけることがあります。それは第2次大戦中に使われていた弾薬庫の名残りです。現在こどもの国がある場所は、戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠として、旧陸軍田奈部隊の管理のもと、戦地に送る弾薬を保管・発送・製造していました。

そんな歴史あるこどもの国の過去を探ってみましょう。

歴史ガイドブックを手にして園内を歩きながら昔の様子を知ることができます。

購入特典として、限定公開「弾薬庫の内部映像」がつきます。



「歴史ガイドブック」

販売窓口:こどもの国 正面入口横の案内所にて

販売価格:200円

販売開始日:2023年4月1日より

弾薬庫跡


弾薬庫の鉄扉。弾薬庫跡は今、倉庫、変電所、浄化槽に使われています。


崖の上に突き出た弾薬庫の換気塔


弾薬庫内部の様子。

 内周道路沿いの道脇に緑色の鉄扉があります。これは第2次大戦中に使われていた弾薬庫の名残りです。現在こどもの国がある場所は、戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠として、旧陸軍田奈部隊の管理のもと、戦地に送る弾薬を保管・発送・製造していました。

 弾薬庫は計33基つくられましたが、土に埋まったり湖に沈んだりして、今確認できるのは十数基だけです。弾薬庫は入口が左右2ヵ所あり、コの字型になっています。部屋の大きさはまちまちですが、ある弾薬庫は幅が25~30メートル、奥行き7メートル、壁の高さ4メートルで、天井の一番高いところで5~6メートルあります。屋根には換気塔が2~6個ついていました。

 壁から少し隙間をあけて張った木材の表面を銅板で覆い、床にはリノリウムが張り巡らされていました。静電気や火花が起きないためです。結露を防ぐために、壁沿いに溝が掘られ、その上の壁に1メートルの高さでコールタールが塗られていました。温度と湿度の管理が厳しく、夏は涼しく、冬は暖かかったそうです。

 保管する弾薬に応じて構造が少し異なるようで、換気塔の数がまちまちで、入口にシャワーが出るようになった弾薬庫もありました。入口が1段高くなっているのは、トラックや荷車の高さに合わせたためです。ガソリンエンジンは火花が出るので、園内の運搬に電気自動車も使っていました。

 弾薬庫は一見トンネルのようですが、実は違います。土手を削って更地にした後、そこに厚さ30センチのコンクリート枠で部屋を造ります。その上に厚さ1メートルの土をかぶせました。1基の弾薬庫を造るのに必要なコンクリートはミキサー車50台分でした。ここの土地は粘土質で地盤が固いため、かなりの重労働でした。

 この場所は細い谷が入り組んだ谷戸と呼ばれる地形で、13戸の農家が暮らしていました。1938年、国家総動員法で住民は強制的に退去させられ、弾薬庫工事が始まりました。41年に旧陸軍田奈部隊が発足してから、弾薬庫の本格的な利用が開始しました。

 敗戦後、61年に「こどもの国」用地として日本に返還されるまで、米軍弾薬庫として接収されていたので、結果的に都会の中にあって豊かな自然がそのまま残されました。

参考資料(PDF)

平和の碑


平和の碑の表には「平和を祈る」とだけ書かれています。

 正面入口から入って右側、道路をはさみ「白百合の丘」と呼ばれている高台があります。その高台に「平和を祈る」と書かれた平和の碑が建っています。碑の裏側には「戦争のない世界を願って」と題し、建立の由来が書かれています。

「1944年から45年にかけて、神奈川高等女学校の学生だった私たちは、国の命令で勉強をやめ、ここで砲弾を作る作業につきました。その砲弾が地球上のだれかを傷つけたのではないかと思うと、とても恐ろしい気持ちです。戦争を再び起こしてはならない、この思いを込めて、女学生休憩所のあった丘に平和の碑を建てました。平和な世界の中でこどもたちがのびのびと育ちますように」


平和の碑の裏には「戦争のない世界を願って」と題して、碑を建てた由来が刻まれています。

 こどもの国の土地は戦時中、旧陸軍の東京陸軍兵器補給廠(しょう)田奈部隊・同填薬所でした。ここで3,000人の日本人軍属が地雷、対戦車砲、手榴弾、高射砲、野戦重砲などの砲弾を製造していました。これを33ヵ所の弾薬庫に保管し、現在の中央広場と牧場口駐車場の2ヵ所にまで延びていた鉄道引き込み線の駅から、全国に輸送していました。

 1944年から県立横浜第2中学(現・翠嵐=すいらん=高校)の4年生(28期生、15歳、250人、男子)と、神奈川高等女学校(現・神奈川学園)の4年生(29期生・30期生、14・15歳、200人、女子)が、学徒動員で毎日駆り出され、朝8時から夕方まで、薬きょうに火薬を詰める作業をしていました。

 米軍の空襲は1度もありませんでした。しかし、悲しい事故はありました。横浜第2中の学生たちは長津田からトラックの荷台に立ったまま載せられ、通勤していました。44年11月30日の朝、トラックと、前からきた将校の乗る車が、狭い道で立ち往生しました。トラックが道を譲ろうと、道路わきギリギリにバックしたところ、前日からの雨で緩んでいた路肩が急に崩れ、そのまま下の川に転落してしまいました。この事故で、中学生6人が水死しました。葬儀で、田奈部隊の上官は「この非常時に、このくらいの犠牲はやむをえない」と言ったそうです。


急な階段を上がったところが白百合の丘です。

 当時、この土地には白百合が咲き誇っていました。女学生休憩所のあった丘にも白百合がたくさん咲いていたので、女学生たちは「白百合の丘」と呼んでいました。働きづめの女学生たちを慰めようと、田奈部隊の1人の兵士が白百合を摘めるだけ摘んで、帰り際に1本ずつプレゼントしました。優しい心遣いに感激した女学生たちは、この兵士を「白百合の君」と呼んで、あこがれたそうです。

 女学生の楽しみは仕事の後に支給されるコーヒー色の甘い飲み物でした。1日火薬を扱う作業をすると、手の先から足の裏まで真っ黄色になり、数日間消えませんでした。当然、硫黄などの成分が体に良いわけがなく、甘い飲み物は解毒剤だったようです。

 1945年2月7日の正午前、この女学生休憩所で昼食を待っていた時、ものすごい爆発音がとどろきました。建物全体が震え、休憩所の窓ガラスも全部粉々に砕け散りました。現在の中央広場にあった駅のプラットホームで棒地雷を貨車に積み込む作業中、突然大爆発が起きたのです。軍属の作業員6人と、近くにいた馬の体がバラバラになりました。昼食当番でたまたま通りがかった女学生の1人も事故に巻き込まれ、片足を切断する大けがを負いました。ちょうど雪の降りしきる日で、高台の女学生休憩所からは一面の雪景色の中、赤い血や肉片が点々と飛び散った光景が、はっきりと見渡せたそうです。


神奈川高等女学校30期4年生のみなさん。学徒動員のこの頃、まだ14、15歳の少女でした。=小金千恵子さん提供

 戦後、女学生の1人が沖縄を訪れた時、ひめゆり部隊をはじめ、住民の多くが手榴弾で集団自殺に追いこまれたことを知りました。「ひょっとして私たちが作った手榴弾だったのではないでしょうか」この時のショックを女学生仲間に語り伝えるうちに、みんなで平和を願う碑を建てようと、募金活動が始まりました。こうして96年3月28日、女学生休憩所があった丘に平和の碑が完成しました。